1960年代、上方の噺家に 新たな波が迫ってきた。ラジオ・テレビ番組だ。
この波にいち早く乗ったのが、終戦直後から実力をつけていた桂米朝で、全国展開を図るけん引力とした。64年からラジオの「題名のない番組」などにレギュラー出演。テレビでは バラエティー番組「ハイ!土曜日です」の司会を務め、名を全国に広めた。
興味深いことに、電波は実力派の力量を一般大衆に広めるだけでなく、若手たちを後押しする場ともなった。入門まもない若手を一躍スターに押し上げたのだ。その一人、笑福亭仁鶴は 66年暮れから、ラジオの深夜番組の DJを務めて人気者になった。それに続いたのが現在、上方落語協会会長の 桂三枝。67年、入門十ヶ月でラジオ番組「歌え!MBSヤングタウン」のレギュラーをつかむ。また、テレビ番組「ヤングおー!おー!」の顔として スマートな笑いで ど若者の支持を集め、同番組には 桂文珍ら若手四人も「ザ・パンダ」の名で登場した。。。。。。
。。。。。実際のところ、噺家たちはどう思っているのか。「テレビ・ラジオは、高座とは別に 得意客に招かれて出るお座敷のようなもの」と 三枝はいう。師匠にみっちりけいこをつけてもらう間もなく 売れっ子になった三枝だが、「落語で一番になりたい」との思いは昔も今も変わらない。長寿番組「新婚さん いらっしゃい!」などの テレビ出演の傍ら、寄席で地道に落語を続けてきた。テレビ出演を芸域の拡大に生かし、共演した視聴者の生の声や 人脈をネタにして 創作落語の第一人者になった。
桂文珍と 笑福亭鶴瓶。二人はタレントから 本業回帰を模索している。。。。。
昨年オープンした天満店人繁昌亭が 予想以上に人気を呼び、一時は 十数人まで落ち込んだ上方落語の噺家の数も 今は 約二百人に増えた。活況を取り戻した上方落語だが、この流れをブームで終わらせず 発展させなければいけない。「何が何でも 笑わしたる」。噺家の持つ心意気こそが 新しい笑いを生み出す。
噺家のスピリッツ、、、、、
三枝、テレビ出演で 芸拡大!!
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